美心会マーク  熊坂先生のコラム/第37回

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 ● 第37回(2005/5)


「鈴木真砂女(すずき・まさじょ)」という女(ひと)がいた






5月である。

院内新聞「くろさわ〜るど」の先月号のハッピー・バースディのコーナーに高崎健康管理センター副所長の松本房江さんの 「『今生のいまが倖せ衣被(こんじょうの いまがしあわせ きぬかづき)』鈴木真砂女さんの句をしみじみかみしめている毎日です」の記事を見て、 鈴木真砂女について書いてみたくなった。特に5月とは関係ないが、言ってみれば触発されたのである。

鈴木真砂女は、明治39年(1906年)11月24日、千葉県鴨川に生まれた。 本名は「まさ」である。生家は名門旅館、吉田屋(現在の鴨川グランドホテル)である。

日本女子商業(嘉悦学園)を卒業後、結婚し、一女をなすも離婚、子を置いて生家に戻った。 ところが、家業の旅館を継いだ姉がその後、急逝し、その夫、すなわち義兄と再婚するはめになった(昔は、このようなことは珍しいことではなかったらしいが)。

昭和10年、姉の死を景気に大場白水郎に学び句作を始めた。 その後、昭和22年、久保田万太郎、安住敦(あずみ あつし)に師事し、本格的に俳句に取りくんだ。 昭和32年、50歳で夫と別れ、状況、銀座一丁目に小料理店「卯波(うなみ)」を開いた。この当時のことを真砂女は次のように述べている。

「私の経営する『宇波』の開店は、昭和32年3月30日のことである。 銀座で水商売を営むことは田舎育ちの私にとって恐いもの知らずの無鉄砲なことだが、私は意地でも場末なんかでなく、この銀座に店を持ちたかった」と。

そして、やがて七歳年下の元海軍士官との恋におちいった。その人には、妻もいた。

このように真砂女の生き方を素材に、丹羽文雄が「天衣無縫」を書き、瀬戸内寂聴が「いよいよ華やぐ」を書いた。

平成10年12月、俳句総会誌「俳句現代」(角川春樹事務所)の編集長に就任した佐川広治は、その第二号を鈴木真砂女特集号とした。

平成11年12月号の「俳句現代」の「二十一世紀に残す俳人達」という特集号にも真砂女はとりあげられている。

「夕蛍」で、俳人協会賞、第六句集「都鳥」で読売文学賞、平成11年、第七句集「紫木蓮」で蛇骨賞を受賞した。

波乱万丈の人生を、平成15年3月14日96歳で閉じた。(「俳句ワールド 発想と表現」佐川広治著 ウェッジ刊)

ところで真砂女の俳句は平明であると思う。季語の使い方がうまいのだと思う。知らない言葉も出てくるが、それは辞書をひけばよいこと。 冒頭の句の「衣被」の意味は私には不明であったが、辞書をひき 「小粒の里芋を皮のままゆでるか 蒸したもの。皮をむき、塩などをつけて食べる。季語としては秋」と知れば、 ある秋の日にしみじみと幸せを感じながら里芋の料理をしている真砂女の姿が目に浮かぶ。また、92二歳の時に詠んだ

いつまでも女でゐたし初鏡(いつまでも おんなでいたし はつかがみ)の「初鏡」の意味を「新年に初めて鏡に向かって化粧をすること。 初化粧。季語としては新年」と知ればどういう情景かは、おのずからわかるであろうし、 また同じ意味でも「初化粧」ではなく「初鏡」という言葉がいかにうまく使われているか、ということもわかるであろう。

次に私の好きな真砂女の句をいくつか紹介したい。


羅や人悲します恋をして
(うすものや ひとかなしますこいをして)
死なうかと囁かれしは蛍の夜
(しのうかとささやかれしは よたるのよ)
山笑ふ歳月人を隔てけり
(やまわらう さいげつひとをへだてけり)
誰よりもこの人が好き枯草に
(だれよりもこのひとがすき かくれくさ)
ほろ苦き恋は忘れず花大根
(ほろにがき こいはわすれず はなだいこ)
こほろぎや目を見はれども闇は闇
(こおろぎや めをみはれどもやみはやみ)
ふるさとの波音高き祭りかな
(ふるさとの なみおとたかき まつりかな)
目刺し焼くここ東京のド真中
(まざしやく こことうきょうのどまんなか)
戒名は真砂女でよろし紫木蓮
(かいみょうは まさじょでよろし しもくれん)

本山可久子著「今生のいまが倖せ・・・・・・母、鈴木真砂女」という本が、つい最近、講談社から出版された。機会があったら是非読んでみたいと思う。







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